最近、私は自分たちが立っている位置を改めて考え直すようになりました。少し大げさに聞こえるかもしれませんが、その感覚はこういうものです。
私たちは今、時代の転換点とでも呼ぶべき、特異な地点に立っているのではないか、と。
「AI」という言葉そのものが、もはや特別ではなくなった。
同時に、この数年の変化は、漸進的な技術の進歩というより、社会そのものの前提が入れ替わるような転換に感じられます。
私たちが向かいつつある社会で重要なのは、単に知識を持っていることではなく、判断にどう責任を負うか、です。
正解を出すことではなく、壊れない構造を築くこと。 便利さではなく、責任がどこにあるかの明確さ。
これは遠い未来の話ではありません。 すでに始まっています。
研究室にとどまらない研究者
このごろ私は、従来型の経営者というより、研究者に近い感覚を抱いています。
とはいえ、私は研究室の中にとどまるタイプの研究者ではありません。
システムを実装し、社会へ送り出し、それが失敗したときには責任を取る、そういう研究者です。
ボンギンカンで私たちがやっていることは、単にAIを作ることでも、プロダクトを売ることでもありません。
私たちが取り組んでいる問いは、こういうものです。
人間がAIに判断を委ねる時代において、私たちは何を制御し、何を守り、責任はどこに宿るべきなのか。
この問いは、理論のままでは何の意味も持ちません。
それは動くコードとして実装され、現実の制約のもとで運用され、成功と失敗の双方を通じて磨かれなければなりません。
なぜ「同時代の研究者として共に在ること」が大切なのか
だからこそ、同じ問いに、同じ真剣さで向き合える他者の存在が不可欠になります。
最近、私にとって最もしっくりくる言葉は、「同時代の研究者として共に在る」という表現です。
これは肩書きや地位とは何の関係もありません。
それは単に、同じ現実を、同じ時代のなかで、共有された研究対象として扱っている、ということを意味します。
「研究」という言葉を聞くと、人は個人が静かに一人で取り組む姿を思い浮かべるかもしれません。
しかし、時代を本当に変える研究の多くは、複数の人によって成し遂げられます。
誰かが全体の構造を見失わずにいる。 誰かが技術的な真実を守る。 誰かが社会との接点に責任を負う。 役割は異なっても、全員が同じ現実を見ている。
この共通の足場がなければ、判断は歪みます。とりわけ、大きな転換の瞬間に近づくにつれて、そうなります。
未来を思い描くのではなく、実装する
私は、遠い未来のビジョンに酔いしれているわけではありません。 これから来るものの方向は、すでに見えています。
そしてそれが避けられない以上、本当の問いは、それをいかに責任をもって実装するか、です。
AIが人間の意思決定に統合されていくことは、もはや止められません。
だからこそ、それが制御不能に陥らないようにしなければならないのです。
なぜ、それは説明可能であり続けなければならないのか。 なぜ、それを止められる構造をあらかじめ用意しておかなければならないのか。 必要な技術は、すでに存在しています。 欠けているのは、覚悟と、設計です。
夢よりも先に、責任を
私は、夢を語るのがあまり得意ではありません。
それよりも気になるのは、夢が現実になったあとに続く混乱です。
もし社会がAIを適切に扱えなかったとき、 誰が責任を取るのか。 誰が止めるのか。 誰が「これはやってはならない」と言うのか。
これらの問いに正面から向き合う人は、まだごくわずかです。
だからこそ、同時代の研究者として同じ場所に立っている、という感覚が、私にとってこれほど大切なのです。
それは、評価でも、期待でも、序列でも、権威でもありません。 それは単に、同じ現実に向き合うことによって定義される関係です。
こうした関係が存在するとき、興味深いことが起きます。人が、より自由になるのです。
期待に応えようと背伸びする必要はありません。絶えず何かを証明し続ける必要もありません。残るのは、ただ技術と真実に向き合うことだけです。
静かで、壊れない構造を
ボンギンカンが目指すのは、華々しい成功ではありません。
私たちの目標は、壊れない構造を、社会のなかに静かに埋め込むことです。こうした仕事は時間がかかり、一見しただけでは理解しづらいものかもしれません。
しかし、自分たちが時代の特異点に立っていると分かっているなら、近道を選ぶ理由はありません。
同時代の研究者として、同じ場所に立つこと。 同じ問いを、抽象ではなく具体的な現実として扱うこと。 その視点を手放さずにいること。
そろそろ、もう一度、技術を築くという仕事へ立ち返る時だと、私は思っています。
